5月10日の『爆報!THEフライデー』(TBS系列19:00~20:00)は、世界のホームラン王・王貞治さんのルーツ、俳優・古尾谷雅人さんの二世は今、そして王キラー・安田猛さんは今、という内容が予定されています。
”王キラー”として知られた、元ヤクルト投手・安田猛(やすだ たけし)さんは、1947年4月25日生まれの現在72歳の方です。
1970年代に、プロ野球のヤクルト・スワローズで活躍されました。
173cm72kgの小柄な体からは、150kmを超えるようなスピードボールは出てきません。
遅いボールとさらに遅いボールを駆使した、技巧派左腕投手でした。
特に記憶されているのは、王貞治さんとの対戦です。
世界のホームラン王に真っ向勝負を挑み、ファンから愛されました。
グラウンド外では、漫画『がんばれ!!タブチくん!!』に登場したことにより、子供の間でも知られる存在に。
ひょっとすると、野球選手としてではなく、漫画の登場人物として記憶されている方もいらっしゃるかもしれません。
安田猛氏キター(゚∀゚ 三 ゚∀゚) pic.twitter.com/AcnwAE2mDz
— なおとーるつば☆葱柳もな七郎🐗@2019令和開戦 (@Amema_ys) 2019年5月9日
漫画の中ではケチなキャラクターとされていましたが、実際の安田さんは一般的な金銭感覚を大切にされる方でした。
ヤクルトに入団した新人の頃には、秋季の練習が免除されていたため、スーパーでアルバイトされていたそうです。
こう聞くと漫画通りのケチなのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。
当時から、プロ野球は華のある世界でした。
同時に、プロ入りすれば、どうしても生活も派手になりがちです。
そのため、安田さんは”普通の感覚”を忘れないために、アルバイトをしていたんだそうです。
今回は、そんな安田猛さんのキャリアと現在、そして王貞治さんとの逸話などを紹介したいと思います。
安田猛元ヤクルト投手の経歴やがんの種類は?
【月刊ジャイアンツ1977年5月号別冊付録選手名鑑】
安田猛(ヤクルト)pic.twitter.com/MYPS86FrMF
— プロ野球選手名鑑BOT (@BBMeikanbot) 2018年12月25日
安田猛さんは、1947年に福岡県北九州市に生まれました。
幼少の頃から野球を始めましたが、母親は大学進学を望んでいたそうです。
兄が大学に進めなかったため、安田さんにはさらなるプレッシャーがかかりましたが、野球でも好成績を収めるようになります。
小倉高校時代には、1965年の第37回選抜高等学校野球大会に出場しています。
大学は、早稲田大学教育学部へ進学し、野球部に所属しました。
早稲田時代は、主に2番手として起用されましたが、1968年の東京六大学秋季リーグ優勝に貢献しました。
大学卒業後は、社会人野球の大昭和製紙に入ります。
大昭和製紙時代は、リリーフとして起用され、1970年の都市対抗野球大会での優勝を経験しました。
1971年、ドラフト6位でヤクルトアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団しました。
1年目から活躍し、1972年は新人王と最優秀防御率のタイトルを獲得。
その後もヤクルト投手陣の主力として活躍していましたが、1974年に右膝半月板損傷の大怪我を負いました。
シーズン中に復帰し、翌年1975年からは4年連続二桁勝利を記録する全盛期を迎えます。
1978年には、ヤクルトの初優勝に貢献。
安田さんは、エースとして15勝をあげる活躍でした。
1979年に右膝を再び故障すると成績が落ち、1981年には左膝の半月板も損傷してしまいました。
そのため、この年限りで引退しています。
引退後もヤクルト球団に残り、コーチ、スカウト、スコアラーや編成部長などを務めました。
特にスコアラーとしては、90年代にヤクルトの監督を務めた野村克也さんから、「日本一のスコアラー」と高い評価を受けています。
2009年にヤクルトを退団した後は、社会人野球のJR東日本のコーチを務めたり、野球解説者に転身されました。
2017年には、母校である小倉高校野球部のコーチに就任します。
コーチ就任から間もない頃、血糖値の下げる薬をもらいに、小倉高校時代の同級生が院長をしている病院に行きました(普段は東京の病院に通っていた)。
そこで、精密検査を勧められ、その結果判明したのは腹膜播種という診断でした。
腹膜播種は、腹膜内にがん細胞が散らばってしまう病気で、治療がとても困難とされています。
東京に帰って、がんセンターで再度検査を受けたところ、スキルス性の胃がんと診断されました。
まだ腹膜播種ではなかったため、抗がん剤治療を開始。
小倉高校のコーチは退任することになりました。
ですが、治療の合間を縫っては、小倉高校を指導し続けているそうです。
元巨人王貞治とはどんな関係?
安田猛さんは現役時代、”王キラー”とも呼ばれていました。
小柄にも関わらず、スローボールを駆使しながら、当時巨人の王貞治さんに対し真っ向勝負を挑み続けました。
王さんは、安田さんに対しての通算打率は.254に留まりました。
星野仙一さんが.318、”巨人キラー”平松政次さんでも.370、そしてあの江夏豊さんでさえ王さんに対しては.287であったのにです。
安田さんは、王さんを現役を通じて抑え込み、王さんにとっては最も苦手とした投手が安田さんでした。
そもそも安田さんは子供の頃から大の巨人ファンだったそうです。
プロ入りの目的も、憧れの王・長嶋との真剣勝負でした。
それはお金には代えられない、野球少年の夢でもあったのです。
安田さんの小倉高校時代の後輩の方は、九州の西日本スポーツに勤めておられるそうです。
その方は、安田さんが現在闘病していることが分かった時、メッセージを求めて王さんを訪ねました。
再び安田さんと会った時、その方は王さんに書いてもらった色紙を持参したそうです。
その色紙には、「気力で乗り切って下さい」と励ましの言葉が書かれていました。
安田さんは感激し、その色紙を大切に飾っているそうです。
安田猛元ヤクルト投手の経歴やがんの種類は?王貞治とはどんな関係?まとめ
- 安田猛さんは、1970年代にプロ野球のヤクルトで活躍した元投手
- 技巧派左腕として1978年のヤクルト初優勝にも貢献した
- 引退後は、ヤクルトでコーチ、スカウト、スコアラーや編成部長を歴任
- 野村克也さんからは「日本一のスコアラー」と評価された
- 2009年にヤクルト退団後は、野球解説者やJR東日本のコーチをしていた
- 2017年からは母校である小倉高校野球部のコーチに就任
- コーチ就任直後に、腹膜播種と診断された
- 再度検査したところ、スキルス性の胃がんと分かり、治療開始
- 治療にともない小倉高校のコーチは辞したが、合間を縫っては、指導を続けている
- 安田猛さんは現役時代は”王キラー”とも呼ばれた
- 巨人・王貞治さんに対しての通算打率は.254と現役を通して抑え込んだ
- 王さんが最も苦手としていた投手が安田さん
- 実は安田さんは子供の頃は大の巨人ファン
- プロ入りの目的も、王・長嶋との真剣勝負だった
- 病気が分かってから、スポーツ紙に勤める後輩が、王さんにメッセージを貰ってくれた
- 後輩から渡された色紙には、「気力で乗り切って下さい」と激励の言葉が書かれていた
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