30年もかけて首里城の復元工事が完了して1年も経たないうちに、主要施設の正殿などが全焼してしまい、その落胆と悲しみは例えようがないでしょうね。
現在も出火原因の調査が続いていますが、国や県は直ちに再建を発表しています。
しかし、ここに立ちはだかるのは予算の問題は言うまでもなく、再建するために資材や技術者の確保だと言われています。
今日は、この二点に焦点を当てて見てみたいと思います。
首里城の再建はいつで期間や7棟の再建費用は?
太平洋戦争で首里城が消失した時には、再建自体は1957年から始まっていますが、国主導で本格的に再建を開始したのは1989年からです。
その後2019年2月に完了していますので、実質的な再建期間は30年ぐらいと言う事が出来ます。
一度消失すると再建にこんなに長い期間がかかるんですね。
首里城の消失は、それ以前にも歴史的に3度(太平洋戦争が4度目、今回が5度目です)消失しています。
1度目は1453年の琉球王朝の王位継承をめぐる内乱で全焼していますが、この時はいつ再建されたのかははっきりしていません。
少なくとも1609年には再建したことが分かっています。
2度目の消失は1660年で11年後の1671年に再建されています。
3度目の1709年の消失の時には1715年に再建されていますので、焼失後6年かかっているということになります。
こうした過去の消失と再建について見てみると、今回の消失については一刻も早い再建が期待されるところですが、正殿を含めて7棟全焼という今回の消失の規模の大きさからすると、現実的には間近の太平洋戦争での消失後の再建ぐらいの期間がかかるのではなかと思われます。
その理由の一つとしては、下でも書ていますが、技術的問題もあるようです。
一方、費用の面に関しては、太平洋戦争で正殿など7棟が焼失した時の復元費は70億円超で、総事業費は1986年から2018年度までの33年間で240億円に上っています。
日本経済はデフレなのでこれ同じぐらいの費用かと思いきや、実際には関係資材の在庫の価格が当時の約10倍になっており、7棟の再建費用だけで200億円以上になると言われています。
再建に必要な資材となるヒノキや瓦職人はどうなる?
次に再建には赤瓦とヒノキが必要です。
1992年の首里城再建の時には、赤瓦は正殿だけでも5万5千枚、全体で22万枚も使われています。
沖縄県内の瓦職人でつくる組合の話によると、正殿に使われている瓦は、現在では採取が困難な土を原料にしていると言います。
また更に深刻な問題は、瓦を作る時の土の配合や焼く時の温度を知っている当時の職人は他界して分からないのだそうです。
民間の工事でも瓦職人の人材確保には相当な困難があるということですし、今年2月に首里城の再建工事が完了して、今後はメンテナンスが必要だろうから、後継者を育成していかなければならないと考えていた矢先の出来事で、職人の間でも驚きは隠せなかったようです。
このため、組合では現在の能力では首里城の瓦を再現することは不可能と宣言。
次善策として、焼け残った瓦を廃棄せずに、1枚でも2枚でも可能な限り再利用するしかないと要請している状況です。
再建には急ぐことも求められるでしょうが、今後のことを考えると、人材育成なども含めた中期的構想が求められるように思われます。
また、ヒノキの確保に関しては、92年の復元時には県内のヒノキが沖縄戦や戦後復興の伐採でなくなったため、他府県産や台湾のヒノキを使用しまています。
しかし、台湾は森林保護の為にヒノキの伐採を禁止しているため、資材確保は困難な状況です。
92年の当時でも既に台湾はヒノキの輸出を禁止していたのですが、特例でこれが最後という前提で入手ができたそうですが、今回また依頼することは難しいそうです。
図面はあるので再建はできるということですが、そもそも太い木が必要なので、資材の調達は簡単ではないということのようです。
まとめ
首里城は1429年から1879年まで450年間続いた琉球王国の宮殿です。
琉球歴史研究家の上里隆史さんの話によると、首里城は戦後の復元で、正殿は中国と日本の建築様式をミックスさせた琉球独自の様式にしてあり、文化的にも他のアジア地域にない特異な建築物だと言う事です。
また、首里城の戦後復興は単なる建物の再建ではなく、沖縄の文化と歴史を蘇らせる一大プロジェクトであり結晶だと言います。
今回消失してしまい、落胆の大きさも人知れずですし、様々な障害が横たわっていますが、何としても再建・復興してもらいたいものです。
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